西日本豪雨復興支援PJ


更新日:2018/08/12

広島市安芸区へ。有志の学生4名とともに。初日は矢野サテライトに向かいました。直接ボラセンに連絡は入れず,被災地外の広島の防災士にだけ伝えていたのですが,入口には「歓迎・追手門学院大学田中先生サークルの皆様」の文字が。おまけに受付前には地域の状況説明までしていただいて,却ってお手数をおかけしてしまいました。さておき,その日は個人宅の敷地内の泥出しをお手伝い。床上90cmほどまで土砂が入ったようです。すでに床ははがされていて,ここに至るまでが大変だったろうと思いました。ボランティアリーダーのもと,2時間半あまりの作業で何とか庭の地面が見えるまでになりましたが,再びここで暮らせるようになるには多くの人手が必要。その後,矢野のまちなみを見ながら駅へ。矢野は江戸から栄えた「かもじ」と「牡蠣」のまち。一方,明治40年,昭和20年にも大水害に見舞われ,特に明治40年の豪雨では64名が亡くなったそうです。駅近くには大きな石碑が建っていました。夕方は,4年前の広島豪雨の被災地・安佐南区にお住まいの防災士で復興交流館モンドラゴンの事務局長,M氏と広島駅前にて再開。9/1のシンポジウムについての打ち合わせ。日帰りの2名を見送ったあと,残りのメンバーで夕食(イタリアン)。

2日目は,私(田中)がうっかりJRの運行状況の確認を怠り,矢野までたどり着けず…急遽,ボランティアセンター本部のある海田市へ。矢野よりも交通の便がよいためか,かなりの人数が集まっていました。そこから私たちは中野サテライトへ行くことに。こちらでも個人宅の泥出しを若干お手伝い。その後,復興交流館のM氏と再び合流し,避難所になっている矢野南小学校へ。ここで別の防災士で,避難所運営のサポートをされているYさんを紹介いただく。矢野南は安芸区にある3つの避難所のうち最も避難者が多く,ピーク時には120名ほど,現在も50名がおられるそうです。段ボールによる仕切りとベッドはだいたい開設後1週間ほどで設置されたとのこと。レンタルのエアコンが置かれていましたが,これも当初はなかったそう。子どもたちの元気な声が響いていたのが救いでしたが,それにしても過酷な環境であることは間違いありません。何より自宅が流失してしまった方が多いとのことで,先行きの見えない中での避難所生活がどれほど厳しいか,想像することさえ困難です。余談ながら,矢野南小学校の設計は象設計集団で,さすがに作りのユニークさは際立っていました。

3日目は,昨日行けなかった矢野サテライトを訪問し,初日にお世話いただいた方々にご挨拶。記念写真を撮りましょうと言ってくださって,これまたお仕事の邪魔をしてしまって大いに恐縮。さらに,郷土史を研究されている方(Hさん)がサテライトにおられ,私たちだけのために即席のまちあるきツアーを。。。そのまちの成り立ち,変遷,いまを知ることが最大の防災になるということを実感しました。その後,広島駅経由で可部線梅林駅へ。三度,復興交流館M氏と合流,2014年広島豪雨災害のその後を詳しく案内いただきました。私(田中)は9カ月ぶりの訪問でしたが,何といっても都市計画道路・長束八木線整備が大きく進展していたことに驚きました。まるで堰堤がふもとに下りてきたかのようでした。土砂を受け止め,地中に流すという役割は確かに大きいのかもしれませんが,一方で南北の物理的分断は決定的です。来るたびに変化を見せるこのあたりですが,レッドゾーンに指定され,何年経っても変わらない更地部分はそれとはきわめて対照的でした。堰堤整備の完了後にイエローゾーンに変更が予定されているそうですが,その変化が元の居住者にとってプラスに働くのか,それともさらに翻弄することになるのか,しっかり見極める必要があると感じます。


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